鴨神社由緒


ご祭神

大山積(祗)命 (おおやまづみのみこと)

伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

伊弉冉尊(いざなみのみこと)

鴨御祖大神(かものみおやおおかみ)

大山積命は「古事記」「日本書紀」で、皇祖イザナギ・イザナミノミコトの子として、神代系図第七代の神(山ノ神)。又「伊予風土記」(713年)では百済からの渡来人が祭った神とされ、百済の第二五代武寧王(斯麻王)の没(523年)により、これを「斯麻の神」「嶋の神」さらに「御嶋の神」としても祭られ、別名「和多志の大神」(海の神)とも記されている。また、大山積命は娘の「木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)」が「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」と結婚し、神武天皇の祖父に当たる「日子穂々手見命(ひこほほでのみのみこと)」を産んだときに大喜びして、天甜酒(あむのたむざけ)を造り、祝った。これが稲から酒を造った始まりで、この大神を酒解神(さけどきのかみ)と呼び、酒造りの祖神となっている。

発祥の縁起

創建年紀は不明なるも、初代神武天皇から第九代開化天皇(四世紀初め)までの奈良葛城王朝を支えた「鴨氏」により三世紀頃に創建されたとの伝承がある。又「伊予風土記」では「仁徳天皇のころ、最初攝津の国、御嶋の地に座した」とあり、それは「続日本記」の「別記」によれば、「摂津の国嶋下郡三嶋鴨社なり」とある。即ち往古よりの「嶋氏」始建に加担するかたちで百済系の渡来人がその頃創建したもので、当社からの分社の「三島鴨神社由来」では「地所は、島上郡、島下郡の中間で三島藍の陵(継体天皇御陵)より巽方四丁(約四百m)にあり往古は小社にあらず」とある。然る後、当社「大山積命」を守護神とする右記百済系の「三島氏」が百済との海上交易を深める為、当攝津の国から愛媛県の伊予大三島に「三島大社」を勧請し、後の三島水軍の守護神となった。また、伊豆にも東上し、伊豆の「三島大社」をも起すなど、当社は全国千数百の三島神社の発祥の大本の地でもある。


高倉天皇(即位1168年)由緒

平清盛の妹で、後白河天皇の中宮、建春門院が皇子誕生を当社に祈願したところ、高倉天皇が生誕され、これを祝し京都に「三島神社」(五條坂)を造営された。尚、高倉天皇の中宮は、平清盛の次女で後の建礼門院で、その子が安徳天皇である。


発掘調査の地質

鴨神社の南東に隣接するマンション建設に伴って平成12年に行われた発掘調査(注1)では、720年代の赤土の地層から柱か柵の跡が発掘されました。赤い土層でしたから赤大路の名前の由来に意昧があるのかもしれません。取手の付いた土器も出土しています。本殿は昭和43年に現在の鉄筋に建て替えたのですが、その時発掘調査しなかったのが残念です。

しかし、少なくとも奈良時代・720年以前の神社ということが証明されたことになります。

昔の赤大路の領域はかなり広く、東は富田に接し、北の「宮田」は鴨神社が支配する田で、鴨神社の「宮」の田と云われていました。また、古老の話によると茨木市東太田の新田地区は昔々は「赤大路新田」、つまり赤大路の領域だったのです。そして、茶臼山藍野陵がある茨木市太田近くには鴨族とゆかりの深い太田連がいましたが、この両勢力は京都においては上賀茂神社と太田神社との関係で、両神社が並び建っていることも興味深いことです。

さらに想像力を豊かにすれば、地図上で三嶋江の「三島鴨神社」と赤大路の「鴨神社」を結び、それを藤原鎌足(669年没)の墓と言われている「阿武山」と結び、さらにそれを延長すると朝鮮半島の「百済」へとつながるのも単なる偶然とは云えないものがあるのではないでしょうか。また阿武山は聖なる山で、その山麓に支配層が住み、総持寺の周辺に民衆が住んでいたと思われます。と言うのも、総持寺古墳群の周辺からは今でも地鎮祭の時、面白いように生活土器が出てくるからです。

(注1)埋蔵文化センターの話では「柱状の穴は狭い範囲の調査のため、神社跡と特定はできないが時代は古く奈良時代」と言います。

鴨族創建の鴨神社

赤大路町の『鴨神社』を創建したのは私たちのご先祖である鴨氏族(以下、通称 「鴨族」と記します)です。その鴨族の先住民族は、紀元 前後に奈良県の葛城山にあ る高鴨神社を祀った鴨族(注1)でした。その一族が我が摂津国嶋下郡(注2)方面へ勢力を伸ばしてきたのです。 その時期は何時でしょうか...。鴨族が神武天皇とともに卑弥呼(注3)を打倒した、少なくとも3世紀中期より前だと思われます。その当時の関西を鳥瞰しますと、今の大阪城がある位置は上町台地と言われ る高台であって、その西側 はすぐ海だったのです。その内陸部に5世紀頃までは 大きな河内湖があって、その湖は奈良から旧大和川を 始め、桂川、木津川、芥川、安威川、が注ぐ淀川とも連なり、その川の流れに沿って葛城の鴨族が、あるいは朝鮮半島から渡来した鴨族が直接、赤大路へ勢力を伸ばし、鴨林(注4)を拠点に拡大し始めたと思われます。(写真は、明治七年 鴨神社社頭境内図)

(注1)鴨族:葛城の鴨一族は広く各地に広がりましたが、4世紀中頃、近畿地方で成立した大和朝廷によって滅亡しました。

(注2)摂津国嶋下郡:7世紀後期の律令制下に入ってから三島郡が豊嶋郡・嶋上郡・嶋下郡に分かれて成立。「続日本書紀」の和銅4年(711)に「摂津国嶋下郡、嶋上郡」とあるのが郡名の初見。

(注3)卑弥呼:弥生時代後期の倭国女王で、没年248年頃。

(注4)鴨林:明治中期まで残っていた字名で鴨神社の住所は「阿武野村大字赤大路字鴨林」でした。

摂津・三島の元氏神

その後、4世紀末の仁徳天皇(在位393−427)の時代に百済から武寧(ぶねい)王の斯麻(しま)王、つまり御嶋(三島)の神が渡来し(注1)、「津」つまり、現在の津之江や三島江の方から北へと勢力を伸ばしてきたのです。その間、三嶋族は先住勢力の鴨族と共生する時代、があったと思います。その後三嶋氏は勢力を伸ばして摂津の国の県主(注2)となり「鴨神社」と合祀して「三島鴨神社」とし、摂津国(注3)の氏神として強大な支配力をつけていったのです。その力に押されるようにして、鴨一族は継体天皇(507即位−531没)以後、滋賀や福井などへ勢力を広げる布石を打ち始めたのです。

ですから、当社の原始は鴨族を祀る「鴨神社」、後に三嶋一族の「三島鴨神社」となり、現在「鴨神社」または「三島鴨神社」と称しているわけです。

(注1)

「伊予風土記」に「百済の国より渡り来まして、津の国の御島に坐しき」とあります。

(注2)

県主:大和朝廷の職掌を示す姓(かばね)で、県主は忠誠度が高く王権の代権者と考えられています。

(注3)

摂津の国の三島郡:

豊嶋郡(現在の豊中、池田)

嶋下郡(現在の箕面、吹田、茨木、摂津)

嶋上郡(現在の高槻、島上町)